すこしむずかしい本を、丁寧に読む読書会

 

読書とは、知識を得るためにするものではなく、あなたの生活を今よりより善くするためにするものです。

年収3000万以上の富裕層、社会的地位が高いエグゼクティブ、より良い人間関係を築き人生を楽しんでいる人。

なぜ、彼らの多くに読書家が多いのか・・・?

そんな彼らが実践する読書方法とはどんなものなのか・・・?

その理由と方法を全て書きました。

そしてそれらを実践するのがこの読書会です。

 

こんにちは、山本です。

まずは読書会の日程と時間と場所をお伝えしますね。

開催場所が東京なので地理的に参加できないという方もいるかもしれませんが、読書というものにいくばくかの興味関心がある方はこの手紙を読んでみてください。

読書会には参加できなくても「すこしむずかしい本」を「丁寧に読む」ことによってあなたが得るものが何なのかを書きましたので。

【日時】
2017年10月29日(日)

【時間】
19時 ー 21時(2時間)

【場所】
渋谷
※渋谷駅から徒歩5分のレンタルセミナールーム
※参加者の方に別途お知らせ

 

それでは、読書会の詳細を。

 

世の中にある本の種類は大きく分けて2つです。

小説などの「フィクション」か、知識を伝える「教養書」か。

で、この読書会で読む本は「教養書」です。

具体的には哲学書思想書や歴史書、時には科学論文などもあるかもしれませんが、いわゆる娯楽の為の本ではなく、本をよく読みますという人ですら読んでいないというか手に取ることすらしないであろう本。

そんな普通の人では絶対に読まない本を読む理由2つあるのですが、それは後述するとして、ここではそういった本は「丁寧に読むに値する本だから」とだけお伝えしておきます。

言い方を変えれば、丁寧に読むしかできない本。

ですので、読書会当日はまるまま一冊を読むことはせず(というか丁寧に読むためできない)、章単位、節単位で読むことになります(あるいは数段落だけということあるかもしれません)。

でもあまり緊張しないでくださいね。

あくまで「すこしむずかしい本」ですから。

 

「丁寧に読む」を体験する。

 

読む本は僕の方で用意し当日に配布します。

数ページの為だけに買ってきてねはあまりにも忍びないので。

その数ページを丁寧に読みます。

具体的には僕がいくつか問いを出しますので、その問いを考えながら読むという感じです。

ただ誤解して欲しくないのは、答えがある様な問いを出すつもりはありません。

「著者が言っていることを次の4つから選べ」的な試験問題ではないということです。

正解を出し順位を決め偏差値の高い大学に入り大手企業に就職し50歳年収1000万円生活のためには試験問題はある意味必要なのかもしれません。

必要なのかもしれませんが、この読書会で読む本は、そんな表層的な目的のために書かれた本ではなく、もっと深いところを主題とした様な本ですし、あなたが読みたいと思う本もそんな本であるはずです。

ですのでどうしても丁寧さが必要となるのです。

 

ところで、「丁寧さ」って?

 

「丁寧さ」を説明する前に、便宜上、本を読む理由を3つに分けてみます。

1.娯楽のための読書

2.情報を得るための読書

3.理解を深めるための読書

先ほど本の種類を「フィクション」と「教養書」という2つに分けましたが、それがこの3つのどれに対応しているかというと、

1.娯楽のための読書(フィクション)

2.情報を得るための読書(教養書)

3.理解を深めるための読書(教養書)

です。

テレビやラジオと違い本を読むという行為は能動的なものですよね。ただフィクションを読む場合と教養書を読む場合ではその能動さレベルは全く違ってきます。

ベットやソファーに寝転びながら、通勤電車内で音楽を聞きながらといった、ながら読書が出来るのはフィクションです。

方やながら読書では教養書は読めません。

もちろん字面だけを読むならできますが、それでは教養書をわざわざ読む意味も価値もありませんから。なぜなら・・・

 

読書とは著者との対話である。

 

よく「読書とは著者との対話(コミュニケーション)」と言われます。

あなたも一度や二度は聞いたことがあるかもしれません。

ただ「読書は著者との対話」と言われても言っていることはわかるけど、実際に行うのは難しい、というか、何をどうしたらよいのかわからないというのが正直なところではないでしょうか。

ですので、まずは普段何の気なしに僕らが行なっているコミュニケーションで考えてみましょう。

読書と違って僕らが行う通常のコミュニケーションでは相手の言葉だけではなく様々な情報をやり取りしています。

言葉に関する声の質(音高)やアクセント(ピッチ)といったものから、目線、姿勢、間、状況など様々な情報を「推察」しながらコミュニケーションを取っている。

だから「おはよう」の一言でも、「あの人今日は機嫌悪いみたい・・・」がわかる。

それは「推察」がなせる技。

例えば、相手がA、B、C、D、Eと5つの表現をあなたに投げかけたとします。

その中で、Cだけが何らかの理由でわからなかったとする。

でも僕らは前後4つ(A、B、D、E)から「何となくこういうことだろう」と察しをつけてコミュニケーションを取り次に進めていく。

まだ表現する言葉を多く持たない子供とのやり取りなんかを思い出していただければ納得いただけるかと思います。

普段意識していなくても僕らはこういった高度な技術を当たり前に駆使して日常生活を行なっているのです。

すごいことですよね。

 

「読めない」と海外旅行。

 

突然ですが、あなたは海外旅行に行った際に惨めになった経験ありますか?

僕はあります。というか旅行中30分に一回くらいはなります。。。

もちろん、これが欲しい、あれが見たいくらいは言えますよ。でもその先が続かない。相手が何を言っているのかがわからないのです。

先ほどのA、B、C、D、Eの例で言えば、C以外全部わからない。

だから苦笑いをつくろう。。。

ゆえの「Don’t be shy!」。

 

教養書が「読めない」もこれと全く一緒。

いや海外旅行より惨めかも。

だって日本語が読めないのですから。。。

 

釣った魚には餌をやらない男。白馬に乗った王子様が現実にいると夢見る女。

 

脈略もなく恋愛のおはなし。

ただ数行後には読書に繋がります。しばしご辛抱を。

 

初恋の相手と結婚する。「ずっと一緒だよ」と語る高校生カップル。

そんなメルヘンよろしくマンガの世界のような話があるのかはわかりませんが、恋愛とは不思議なものですよね。

非日常が日常になる過程における気持ちの変化とでも言えばいいのでしょうか。

出会った頃は顔を見るだけでドキドキ。

今じゃ顔を見るだけで不整脈。

だから相手の言葉なんか全部を聞いてられない。

Aだけ聞いてわかったつもり。

Bだけ聞いて知ったつもり。

いつしか一番知っていると思っていた人が、一番何を考えているのかわからない人へ。

・・・おわり。

 

「丁寧さ」が必要な理由。

 

最初はね、ちょっとしたボタンの掛け違いなんですよ。

お互いが気づかない程の小さな。

A、B、C、D、EのCだけわからなかったけど何となくやり過ごした。

その何となくが毎回になりいつしか修正が効かないほどずれていく。元には戻せない。だから壊れる。

恋愛ならこの経験が次に活かせるのでよいかもしれませんが、教養書を読むに限ってはそうはいきません。

 

最初はA、B、C、D、EのCだけ少し意味がわからないレベル。

なので「まあこういうことだろう」と次に進む。

娯楽を目的とした読書ならこれでよいでしょう。

ただ教養書というものは無駄なものは一つとなく全てが関連しています。

つまりCを適当に読み飛ばすと必ずどこかで齟齬が出る。

進んだ先のF、G、H。

Cが曖昧なので、F、Gがよくわからない。

こういうことは教養書においては日常ちゃめし毎です。

もうね3個中2個もわからなければ読めなくて当たり前。

仮に無理して読んだとしても、そこから得られるものは著者が言っていることとは真逆とは言わないまでも、大分間違った明後日の方向へ。

あさっての方向で批評している人、ネット上では多く見かけます。

僕らが得たいのは見当違いの明後日ではなく、正しい明日です。

だから有限な時間と貴重なお金を使って教養書を読む。

ですよね?

だから僕らに必要なのは、Cを読み飛ばさない「丁寧さ」なのです。

 

教養書が僕らに要求する資質。

 

丁寧さを欠くことの一番の悪害。

それは適当に読んだ自分を棚上げし自分本位に解釈し「わかった気」になること。

身近な言葉で言えば、自己チューな奴。

「いやだからこうなんだよ」「けどさ」「でもさ」「私はさ」「なになにだから」・・・

相手が言ったことをさらっと聞き流し(というか聞いていない)、自分の言いたいことだけを言う。

それで最後は「Give me いいね!」・・・

こんな奴とは一緒にいたくないですよね?

著者も同じではないでしょうか。

 

教養書というものは、僕ら凡人では夢想もできない程の深淵な思索の旅を経た結果の作品です。そんな壮大な旅をほんの少しでも共有する共有しようと努力する、それが教養書を読むということなのです。

だから一言も逃さない様に著者の話を聴く(読む)。

そこには著者に対しての丁寧さが必要です。

丁寧さがなければ教養書からは情報を得ることも、理解を深めることもできないのです。

ゆえに、丁寧に読む読書会なのです。

そして、冒頭でお伝えした彼ら(年収3000万以上の富裕層社会的地位が高いエグゼクティブより良い人間関係を築き人生を楽しんでいる人)が、どんな姿勢で本と接しているかがお分かりいただけたかと思います。

 

なぜ、「すこしむずかしい本」なのか・・・?

 

「すこしむずかしい本」。先ほどお伝えした通り、具体的には哲学書思想書といった所謂知識を伝える教養書です。

そんな一般人が読まない本をわざわざ読む理由の1つ、それは、ちょっと小難しいことを知っていることで周りから頭いいと思われたい、とかではなく、哲学者や思想家の人たちが持つ問題意識を共有することは、今のあなたが持つ不安や不満、心配や恐怖といった暗闇に光を射すことに繋がるからです。

簡単に言えば、新しい視点を手に入れるということです。

 

新しい視点と新しい恋。

 

失恋を経験された方も多いとは思いますが、失恋は苦しいものです。心が締め付けられるという表現が万人に当てはまるのかはわかりませんが、とにかく苦しい。時と場合によっては死にたくなるくらい。。。

でも多くの人は次の恋に進む。そしてあれ程苦しかった失恋が嘘かのように色彩豊かな新しい世界が始まる。

哲学書や思想書は新しい恋人のようなものです。

毎日同じことの繰り返しでやりたいことも生きる意味もわからない。そんな苦しい現実に一筋の光を射す新しい恋人、それが哲学書や思想書です(ちょっと気持ち悪い例えだったかな。苦笑)。

故に、有限である時間とお金をかけてまで本を読むのだから、娯楽を目的とした本や、数カ月程度で使えなくなるノウハウ本を読むのではなく、哲学書や思想書といった「すこしむずかしい本」を読もうじゃないか、ということでこの読書会を主催しております。

なぜ、彼ら(年収3000万以上の富裕層社会的地位が高いエグゼクティブより良い人間関係を築き人生を楽しんでいる人)の多くが哲学書や思想書を積極的に読むのか・・・?もうご理解いただけたかと思います。

 

読書会に参加するメリット。

 

さて。

ここまで丁寧さが必要な理由すこしむずかしい本を読む理由をお伝えしてきましたが、この読書会では丁寧に読むにプラスして、各々が考えた内容を参加者同士でさらに議論していきます。

通常、読書とは一人で行うものです。

先ほども言いましたが、読書は著者との対話です。

その意味でも一人で出来る読書をわざわざ時間とお金を使ってまで読書会に参加し議論することになんのメリットがあるのか?

これに答える前に、ちょっと次の文章を読んでみてください。

 

“美しい「花」がある、「花」の美しさという様なものはない。”

 

あなたはこれを読めますか?

いや別に馬鹿にしてるわけじゃないですよ。

日本語としては誰だって読めますから。

この文章は、センター入試に出題されると国語の平均点が下がるとまことしやかに囁かれている小林秀雄先生の『当麻(たえま)』からの一文ですが、ほとんどの人は読めるけど意味がわからないと思うんですよ。

じゃあ『当麻』を買って読んでみる。

文庫本でたかだか4ページ半。

決して読みやすい文章ではありませんが読めないことはない。

でも意味がわからない(と思う)。

わからないから誰かに聞く。

教えてGoogle先生!

便利な時代です。

様々な方がこの文章を解説してくれてます。

特に、知らないと恥をかくなんちゃらなんて本を出していそうな権威を纏った著名人は解説がうまい。「わかった気」にさせてくれます。

「やったー、これでまたひとつかしこちゃんになったよ!」

めでたしめでたし・・・とはいかないんだなあ。

 

「わかった気」が差し出すもの。

 

「それ知ってる」「テレビでやってたね」

どこにでもある日常会話のワンフレーズです。あなたも言ったり聞いたりしたことありますよね。

スマホがあれば世界中で起こっていることを瞬時に知れて、行きたい場所(の映像・動画)も直ぐに見れる。

僕ら現代人は基本的には知りたがりです。街を歩けばスマホに夢中になっている人がどれだけ多いかがそれを物語ってますよね。

どこでもいつでも「Give Me Information!」。

それはそれで悪いわけではないのですが、スマホで検索できるのはただの情報、言い換えれば誰かの意見や感想であってそれ以上でもそれ以下でもありません。

先ほどの小林秀雄先生の文章に関する解説だって、権威があろうがなかろうが他者の意見な訳で、決してあなたが自分の頭で悩み考え出したものではない。

でしょ?

なのに「小林先生はこんなことを考えていたのかあ、へえ」と何も考えもせず他者の解説(意見)を受け入れ「わかった気」になる。

わかった気は考えなくていいので楽です。

ただその楽さと引き換えにあなたは「ある大切なもの」を差し出しているのです。

 

常識、当たり前 = 偏見

 

他者の意見を無思慮に受け入れることを「わかった気」とお伝えしましたが、それは同時に自分の意見がないことを意味します。

なぜなら、自分の意見があれば相手の意見をそのまま受け入れることはしませんから。

仮に、結果が相手と同じ意見だったとしても、そこに至るまでに自分の意見と相手の意見を比べ本当に同じかを検討する。その結果が相手と同じだった。これが「自分の意見がある同じ意見」です。

これを経ないのが「わかった気」。

これの恐ろしいところは、自分から出た意見なのに、それが自分のものなのかそれとも他人のものなのか、それすらもわからないという点です。

あなたの意見イラッシャーイ的なウエルカム状態が平常化すると、次第にそれが自分の意見である様な気になるもの。それは他人の意見を自分の意見だと錯覚している、と言ってもいいのかもしれません。

特に常識とか当たり前だと自分が思っていたり信じていたりすることやもの。

要注意ですよ。

だからアインシュタインは僕らにこう言うのです。

常識とは、18歳までに身に付けた偏見のコレクションである。」と。

本来なら世界に一つしかないあなたの意見。

それが実は他人の意見だったとしたら、あなたの人生は自分のもの?それとも・・・

 

同じ様な服を着て、同じ様な表情をして、同じ様なことを言う。

 

もちろん先ほどもお伝えしましたが、結果的に同じ意見になることはあります。

でもその「同じ意見」が自分で考えた結果なのか、それとも他者の意見をそのまま横流しにした結果なのか、そこがポイントなのです。

パンケーキに何時間も並ぶのもいいでしょう。

渋谷のスクランブル交差点で(迷惑にならない程度に)喜びを共有するのもいいでしょう。

会社の愚痴を言い合うのも時にはいいでしょう。

でもそれが自分で考えた結果で行なっているのかそうでないのか、そこが非常に大事なことなのです。

でないと、僕の母が紅白に出ているアイドルグループをみて「どれも一緒に見えるからよくわからない」と言うように、「どれも一緒、よくわからない」となってしまいます。

で、実際の現実は?あなたの周りを見渡してみてくださいよ。

本来ならユニークであるべき人間がこうも同じだと壮大な喜劇を見ている気にもさせられます。そんな喜劇を作り上げているものは何か?

常識という名の剣を右手に、みんなと一緒という盾を左手に持った世間は皮肉にもこんなことをドヤ顔で言います。

「誰のためでもなく、自分の人生を生きよう」と。

さあご一緒に。「ありのーままのー」。。。

 

“服従と支持は同じものである。”

 

これはドイツ出身の政治哲学者ハンナ・アーレントという人の言葉です。

彼女は正確には「政治においては服従と支持は同じものである。」と言っています。

本来、支持というものは自分の判断で主体的に行うものです。

つまり政治に参加する者にとって支持(判断)は義務なのです。

けれどその義務を放棄し服従に徹する。

詳細をお伝えすると長くなるので簡単に済ませますが、実はこの言葉はナチス政権下においてホロコーストの中心人物であったアドルフ・アイヒマンの裁判記録の最後にアーレント述べたものです。

「私は指示に従っただけ。指示に従わないという選択肢はなかった。だから罪があるとは感じていない。」と主張するアイヒマンに向けアーレントは言うのです。

「服従と支持は同じである。」と。

 

あなたにとって一番大切で尊いもの。

 

アーレントは「政治において」と言っていますが、これは政治の場だけではなく僕らの日常に置き換えてもその意味は変わらないと僕は考えています。

他者の意見を「わかった気」になる。

わかった気(他者の意見)が自分の意見だと思い込む。

それは換言すれば他者の意見への服従です。

アーレントは言います。

「服従と支持は同じである。」

自分の「意見」だと思っていた。

けどそれは他者の「意見」を支持しているだけだった。

「意見」を「人生」と置き換えてみてください。

「わかった気」という楽さと引き換えに差し出しているものが、どれだけ大切でどれほど重要で世界に二つとない尊いものか理解できるはずです。

 

日常に隠される他人の意見。

 

もちろん中には「私は自分の考えがあるので大丈夫」という人もいるでしょう。でも世の中にはあなたが想像もつかない程の天才達がいることを忘れてはいけません。

彼らは僕ら凡人では絶対に気づくことができない巧妙さで自分達の意見を僕らに浸透させてきます。

わかった気にさせるのが空前絶後の超絶怒涛のマジシャン級にうまいとでも言いましょうか。

ほんの一例ですが。

なぜ、朝のニュースでは不幸な話題をメインに放送するのでしょうか?

世界トップのファストチェーン店の椅子のデザインが統一なのはなぜでしょうか?

新興宗教にハマる人の多くに高学歴の若者がいるのはなぜでしょうか?

ヘイトスピーチ等をSNSで拡散することで本当にメリットを得るのは誰なのでしょうか?

 

世の中になんとなくはありません。全てに意味があります。

意味がないと思うのは単に僕らがそれを理解できないだけ。

オレオレ詐欺じゃないけれど、自分は絶対に大丈夫だと思った時、すでにあなたは絶好なターゲット。

ほら、カモがネギを背負って歩いているよ。

 

少し話を戻します。

 

忘れているかもしれないのでもう一度お伝えしますね。

読書会のメリットです(忘れてたでしょ?笑)。

と言いつつ、実はメリットはすでにお伝えしているんですよね。

なのでここまで読んでいただいたあなたならなんとなくでも伝わっているはず。

ステルスマーケティング(笑)。

というのは冗談できちんとお伝えしますね。

 

メリット1:他者を知ることは自分を知ること。

 

ゲーテは「他国を知ることは自国を知ること」と言いましたが、ドバイに住む知人がこんなことを言っていました。

「1分も遅れることなく時間通りに来て、停車位置を寸分違わずに止まる日本の新幹線に改めて感動した」と。

海外に行くことで日本の素晴らしさに気づくという経験をされた方は多いと思いますが、これは「外の視点」がどれだけ重要かを物語っていますよね。

時刻表通りに電車がこないことで苛立つサラリーマン。

電車が5分遅れただけでお詫びをする車内放送。

ドバイから見たら「そんなことで」なのです。

でもドバイ(外の視点)を知らなければ通勤電車が自分の全てになる。

イエス、ストレスフル人生。

 

読書会は外の視点の宝庫です。

性別や年齢、職業やスキル、今まで生きてきた環境も信条も考え方も異なる外の視点は一人の読書では得られないあなたの貴重な資源となるはずです。

なぜなら、海外を知ることで自国を知れるように、他者を知ることは自分を知ることに繋がるのですから。

自分探しでインドに行くくらいなら、この読書会に参加しましょう。

50万をかけて行くただのインド旅行よりずっと安上がりですから(笑)。

 

メリット2:毎日の繰り返しでは出会うことはない外の視点。

 

ビジネス書を読むような読書会とは違い、学術書を読む読書会はそりゃ(いい意味で)癖のある外の視点が集まります。

冒頭に「普通の人では絶対に読まない本を読む2つの理由は後ほど」とお伝えしましたが、その2つ目の理由がこれです。

月収100万円の為に勉強しています、とか副業で月に10万円稼いで豊かな人生を歩みたいです、といったカテゴライズされた視点ではなく、ノンカテゴライズが縦横無尽に行き来する読書会は、ある意味カオス(混沌)かもしれませんが、カオスの中にこそあなたが本当に必要とする視点があったりするものです。

代官山や函館の蔦屋書店、二子玉の蔦屋家電、ヴィレッジバンガードなどに行き、自分が欲しいと思っていた商品とは全く違う商品を買っていた、だけどそれがすごくよくて大切なものになったなんて経験している方も多いと思います。

それと同じ。

もちろん最初から決められたものも時には必要でしょう。

でもそれは僕がやる必要のない読書会です。

決められないことやものの中にこそ本当の楽しさや嬉しさや喜びがあると僕は考えているし、また「わかった気」を防ぐには兎にも角にも多くの「外の視点」が必要です。

もちろんただ単に多いだけでは意味はありません。

毎朝当たり前のように、同じニュースを同じ論調で同じ時刻に同じように垂れ流すテレビはどれを見ようが見まいが同じでしょ?

そんなものは無視していい。

あなたに必要なのは「普通じゃない」外の視点です。

まあね、普通とノット普通を定義するのは難しい、、、ですが、哲学書や思想書を精読する読書会なんてあまり普通じゃないですよね?

だから普通じゃない外の視点が集まりそうだと思いません?

ゆえに僕はこの読書会を開催するのです。

カオスを積極的に自分の人生に取り入れたい人はぜひ読書会にご参加ください。

因みにですが、こんなレターをここまで読んでくださっている時点であなたも「普通じゃない」ですからね?(笑)

自分のことは自分が一番よく知らない。

読書会は「無知の知」への第一歩。

普通じゃない外の視点の一人としてのご参加お待ちしております。

 

メリット3:自分の中に自分だけの軸を育てる。

 

ここで言う「」は「価値」のことです。

言い換えると。

この読書会はあなた自身の手であなたの中にある価値を育む場である。

これが3つ目のメリットです。

これに関しては詳しく説明しましょう。

 

「価値観の多様化・・・」

 

なんて聞いたことある方も多いかとは思いますが、果たして本当でしょうか。

確かに一歩街に出れば「そんなん必要?」と思えるもので溢れかえっていますが必要な人がいるから企業は作る。価値観が多様化した(と言われる)消費者ニーズに応えるべく企業は商品サイクルを改善し続けできるだけ早くできるだけ安くと競争を強いられエンドレス。

その結果だけを見れば間違いなく価値観の多様化です。

でもその割にみんなどことなく同じに見えるのも拭えない事実。

本当に価値観は多様化しているのでしょうか?

 

聞き飽きた「いい大学に入って一流企業に入って年収1000万」。

 

これも価値観の一つではありますが、方や偏差値だけが全てじゃない、お金だけが全てじゃないと言われ続けて20年くらい経つのでしょうか。これも一つの価値観です。

ここに2つの価値観が登場しました。

登場しましたが、一流企業だろうが、それ以外の道だろうが、年収300万年収1000万ならどちらを選ぶかと言われたらほとんどの人が年収1000万を選ぶ現実を見れば、価値観は1つと言えると思います。

表面的には価値は多様化しているように見える。

けど「根っこは同じ価値」を共有している。

そう言えるのではないでしょうか。

 

もちろん、これが悪いと言いたいわけではありません。

たまに「山本さんはお金を稼ぐことを悪いことだと思っているのですか?」と聞かれたりしますが、そんなことはありません。

お金は必要で大切です。だから稼ぐことが悪なんてこれっぽちも考えていません。

(もちろん稼ぐ方法にもよりますよ。悪いことでお金を稼いでいいとは1ミリも思ってません。ただその辺の話はややこしくなるので割愛)

だってこの世界で自分の足で立って生きるにはお金はなくてはならないものだし、必要以上にある必要はないけれどお金がないとできない経験もある。そういった経験が人生を豊かで実りあるものにしてくれることは僕の経験からも言えることです。

だからお金は大切だし必要。

なので僕は300万より1000万を選ぶ(目指す)価値観が悪いと言いたいのではありません。

そうではなく、「当たり前」に僕らが受け入れている価値に疑問があるのです。

僕らが共有する「根っこの価値」への疑問なのです。

 

花屋の店先に並んだいろんな花。

 

と惜しくも解散してしまった国民的某アイドルグループは歌ったけど、バケツの中誇らしげにシャンと胸を張るいろんな花も根が土から養分を得るからこそ咲くことができる。

ダンゴムシもミミズも昆虫も動物たちの糞尿も触りたくない汚いものかもしれないけれど、それらでできている土がなかったら花は咲かない。

だからと言って、土ならなんでもいいのかと問われるとそうじゃない。

腐った土という表現が正しいかは置いときますが、そんな腐敗した土壌で咲く花は果たして世界に一つだけの花となるのでしょうか?

また表面上は良い土でも、中身は添加物まみれで自然とは程遠い人工土壌で咲く花を美しい花と言えるのでしょうか?

腐った花を咲かすとまではいいませんが、間違った土壌で咲いた花は「Only one」ではなく、「One of them」でしかない。

「根っこの価値」への疑問とはこういうことです。

 

嫌われる勇気。

 

みんなが良いというものに疑問を言ったら「あいつ何」となるでしょう。

特に狂信的に信じられているものやことに関しての疑問は下手したら命の危険すらある。

最近の世界で起こっているテロなんてまさにそうですよね。対岸の火事?いやいや日本でもほんの40年くらい前には似たような事件が多くあった事実を考えれば、歴史は繰り返すじゃないけど、日本で同様のことが起こらないとは限りません。もちろんここまでいかなくてもいじめ問題、なんちゃらハラスメント類は身近な問題ですよね。

誰だって進んで村八分にはなりたくない。

仲間はずれは怖いけど、その結果支払っている代償は「わかった気」でもお伝えした通りです。

アドラー心理学をわかりやすく伝えることで大ヒットした『嫌われる勇気』の中にはこんなことが書かれています。

自由とは他者から嫌われることである。

「ぜんたーい右向け右」という号令の中、左を向くドリフみたなことをやらなくてはいけないということです。

コントなら簡単でしょう。でも現実ではなかなかできない。

学校・職場・サークル・家族・地域・市町村・都道府県・国・・・

属する社会が大きかろうが小さかろうが、ネットだろうがリアルだろうが「右向け左」を実践することが難しいことはあなたも少なからず経験していることだとは思いますが、仮に「よし!今日からサイレントマジョリティーをやめる!」と決意しても実際問題、残念なことに何に対して左を向けばいいのかわからないのではないでしょうか。

それが現実。だから・・・

 

やりたいことがわからない。

 

となる。左がわかっていたら左に進むだけ。でも左がわからないから今までずーっと皆と同じ方向(右)を向いてきた。自分に嘘までついて。

当然の帰結です。

だからと言って自分を責める必要はありません。

それは日本にいたら日本の良さがわからないのと同じ。

同じ価値の上で生きていたら何が価値かがわからないのは当然ですから。

 

だから、「すこしむずかしい本を、丁寧に読む読書会」なのです。

 

深淵な思索の結果を精読し、同じ場を共有する多くの人と交わり、多くの視点に触れ、自分の中にある価値を育む、いや育むというよりは気づくと言った方が適切かもしれません。

だって僕らは何が大切なものか気づいていない。

すでに大切なもの(価値)を持っているにも関わらず・・・

 

“大事な秘密を教えてあげよう。”

 

星の王子さまは続けてこう言います。

とても簡単なことさ。

それはね、ものごとは心で見なくちゃいけない、ってことなんだ。

大切なことは、目には見えないからね。」(『星の王子さま』より)

 

私ごとで恐縮ですが、ちょっと僕の親父の話を。

僕の親父は酒癖が猛烈に悪いです。

酒を飲むと人格が変わると言えばいいのかな。

「今日はまっすぐ家に帰ってきてほしい」と願うのは父が好きだからとか遊んで欲しいからではなく、酒に酔って罵詈雑言を吐く父に怯えていたから。

でも願いは叶わずほぼ毎夜酒を飲んで帰ってくる父。

「俺は馬車馬のように働いて!」と当時団地に住む隣近所に丸聞こえなのも気にせずに夜中に喚き散らす父。

恐くて仕方なかった。

 

そんな父も歳をとりました。

まあ酒癖がよくなったとは言いませんが、酒の量も回数も減り大分大人しく飲むように。

そんな折、先日実家に帰った時の話です。

父が晩酌中にこんなことをポツリと言ったのです。

俺が頑張れたのは母さん(家族)がいたからだ。

 

子供心に酒に酔って叫び散らす父に対してこう思っていました。

「誰もそんなに働けとは言っていない。酒を飲まないとやっていけないくらいなら仕事をやめればいいじゃないか!」

子供ながらに、愚痴を言いつつも嫌なことをやり続ける父への反感。

でも父はどんなに泥酔しようが酩酊しようが休むことなく毎朝きちんと起きて仕事に出かけて行った。

 

今だから思うのです。

父の中には価値(家族)があった。だから嫌な仕事でも続けていたと。

当時の父にはその価値は見えていなかった。だから酒に頼ったのだと。

もしあの頃、父がその価値に気づいていたら・・・

星の王子さまのいう通りです。

大切なことは目には見えない。

 

「毎日同じことの繰り返し・・・」なら読書会へ。

 

会社と家の往復で平日は終わり、週末は疲れて何もやる気が起きない。

その気持ちわかります。

実際に僕もサラリーマン生活を11年続けましたからね。

嫌味な上司と気の合わない同僚、何を考えているのかわからない後輩、顔を見るだけで胃が痛くなる取引先、理不尽な給与体系、好き嫌いに左右される評価、憂鬱になる会議、意味のない報告資料、虚しくなる飲み会という名の愚痴をこぼす場、乗るだけで疲弊する通勤電車・・・

だけど生活のため、家族のためと日々を過ごす。

これはこれで悪くはないが、よくもない。

もしそう思うのであれば「いつもと違うこと」を意識した行動を起こしてください。

宝くじが当たったらいいなあ、寝て起きたら痩せていた、聞くだけで英語が話せる・・・

こんなすてきなワンダードリームに浸るのも構いませんが、そろそろ夢見る夢子ちゃんをやめなくてはいけない時です。

時間はまるで悪意を持っているかのように僕らを無視して通り過ぎます。

あなたがおいくつかは存じませんが、今日があなたの人生で一番若い日であることは間違いありません。

人生という日々は「いま、ここ」の積み重ねです。

時間泥棒に自らの手で大切なものを差し出さないでくださいね。

そうだ読書会、行こう(笑)。

 

さて、この手紙もなんやらかんやらで長くなりました。

 

読書会の概要をまとめましょう。

 

この読書会であなたがやることは、以下の3つです。

1.課題図書(哲学書や思想書、時には科学論文や哲学を表現した小説やエッセイなど)を読む。

2.問いをいくつか用意しますので、それを考える。

3.参加者同士でディスカッション、より理解を深める。

課題図書は当日に配布します。が、決して本一冊とかではなく、一章だけとか数節だけとか、時には数段落だけという日もあるかもしれません。なぜなら「丁寧に読む」は量ではなく質ですし、僕らが読もうとしている本は2、3時間で全てを読めるようなライトな本ではありませんから。

とは言ってもあまり緊張せずにご参加ください。あくまで「すこしむずかしい本」ですので。

また、課題図書に関する問いは、試験問題のような答えがあるようなものではありません。ですので「全然わからなかったらどうしよう・・・」といった心配はご無用です。点数をつけるようなものではありませんから、お気軽にご参加いただければと思います。

 

そんな異業種交流なんて生易しいものではないカオスな視点が集まる混沌な読書会において、人類の叡智である思索の旅を幾ばくかでも共有すべく共に歩き道中にある景色を各々が味わう読書会

さあーてそんな読書会の概要は。

 

【日時】
2017年10月29日(日)

【時間】
19時 ー 21時(2時間)

【場所】
渋谷
※渋谷駅から徒歩5分のレンタルセミナールーム
※参加者の方に別途お知らせ

【参加費】
6、000円
※お支払いは、クレジット決済、銀行振込を選択できます。
※クレジット決済はPayPalを利用しています。

 

以上、読書会の概要でした。

それではあなたと読書会で会えること楽しみにしております。

壮大で深淵で豊饒な美しい景色を一緒にみましょう。

山本 和広






10月29日(日)19時@渋谷 すこしむずかしい本を、丁寧に読む読書会 申し込みフォーム
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追伸1:自分を変えてくれるもの。

 

想像してください。

あなたの目の前に水が半分入ったコップがあります。

これを「あと半分しかない」と思うか「あと半分もある」と思うかはあなた次第。

一年を通して井戸水はほぼ18度で一定しています。

けど夏に飲む井戸水は冷たく感じ、冬に飲む井戸水は温かく感じる。

自分がいる環境によって捉え方は変わる。

 

事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである。」(ニーチェ)

 

今の自分を変えたいと思う人は多いです。

あなたも一度や二度は思ったことあるはず。

変わりたい、それは毎日同じことの繰り返しに嫌気や焦りを感じているからこそ抱くもの。

いつも「あと半分しかない」と思い、年中「井戸水は冷たい」と感じる日々。

変わりたいと思うのは当然なのかもしれません。

 

先ほど、読書会のメリットとして「外の視点」の話をしました。

外の視点は「あと半分しかない」と思っている日常の中に「あと半分もある」を気づかせる「きっかけ」となります。

先ほど、読書会のメリットとして「自分の軸」の話をしました。

自分の軸とは「皆が疑いもなく井戸水は冷たいもの」と感じている環境に、「いや、冬の井戸水は温かく感じるでしょ」と投げかけることです。

 

歳をとると頑固な人が増えてきます。

あなたも私も例外ではありません。

そんな中、コップの水に対する見方や考え方を増やしたり、井戸水に対する違う感じ方に気づくのは結構大変です。

でもその大変さの中にこそあなたが欲しいものがある。

だって自分を変えるとはこういうことを言うのだから。

 

大切なことは見方であり考え方である。」(ケインズ)

 

追伸2:道具を使いこなす丁寧さ。

 

読書は知識を得るものと一般的には考えられています。

確かにその通りです。

その通りですが、知識は道具にすぎません。

何年か前に手植えde田植えをしたことがあるのですが、その際、トラクターのすごさを実感しました。

横を見ればトラクターが置いてある。

でも気づいたのです。

「あっ操縦できない」

トラクターは使ってなんぼ。

最新トップグレードの700万もする高価なトラクター(道具)でも置いてあるだけじゃ意味がありません。

 

本を読むもこれと同じ。

冒頭でも言いましたが娯楽のためならそれでもいいでしょう。

でもこの読書会で読む本は単に読んでわかった気になっても意味がないものです。

わかった気になりたいだけなら新刊やビジネス書を読んだ方が楽だし有用です。

有限である時間とお金をこの読書会に使う必要はありません。

それでも、トラクターをいつか使いこなしたい、そう思うのであればぜひ一緒に丁寧に読みましょう。

丁寧に使われた道具(知識)は得てして美しいものですから。

 

追伸3:読書の車窓から。

 

僕には電車好きの甥っ子がいます。

子供の成長というのは驚きの連続です。会うたびに新しい車両、新しい路線の知識を増やしている。

彼は電車を見るのも乗るもの大好きだから会うたびに電車に連れてけとせがみます。

先日も彼がどうしても乗りたい電車があるというので連れて行きました。

興奮気味に乗り込む電車。

ただ祝日だったため座席は全て埋まっている。

それを見た彼はすこし残念そうにしながらもすぐさま立ち直りドアにへばりつき、窓からの景色を見ようと自分にできる限りの背伸びをして、また時にはぴょんぴょんとジャンプをして、車窓からの景色を覗いていた。

「ねえねえ!今のなに!!すごいね!!!かっこいいね!!!」

興奮度マックス2000%!

子供の笑顔は、何ものにも代え難い。

全米が泣いた!!!(笑)

その存在がキラキラと美しく輝いて見えるほどに。

 

この読書会は僕の甥っ子がやっていることの読書バージョンです。

いつもと違う景色を見るために、すこし背伸びして本を読む。

背伸びした結果、全てが読めるかはわからない。

けど、一生懸命に背伸びしジャンプして見た車窓からの景色。見えたのは一瞬だったかもしれない。それでも僕の甥っ子の世界は輝いた。

同様に、僕らが読む本はたったの数ページ、いやたった一行読めただけでも世界が変わる。

今まで見ていた景色と同じ景色なのにとても明るくすごく輝いて見える。

そんな体験をこの読書会であなたとできれば嬉しく思います。






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