art.117 名指し

確かなものがない時代だと思うなら、自分で確かなものを決めてしまう。

もちろん、それが確かなものかはわからない。

人間は間違う生き物だから。

だからと言って誰かが「これが確かなものだ」と名指したものに納得がいかないのなら、自分で名指すしかないのではないだろうか。

恥ずかしがっていてもしょうがない。

大いに名指そうではないか。

art.116 他人事と思えるように頑張ると心が休まる瞬間が訪れる

嫌なことや苦しいことがあると胸が締め付けられる。

身体と心(脳)が繋がっている不思議。

だから苦しいのはしょうがない。

でもその苦しさをそのまま受け止めるのが辛いから、僕らはあの手この手で逃れようとする。

それも仕方ない。

仕方ないけど、その逃れる方法に自己客観視を取り入れてみてほしい。

自分に起こったことを他人事としてみる、である。

もちろんこれほど難しいことはないのはわかっている。

でも出来なくてもいいからやれる努力をしてみる。

すると、極稀にだが、ふっと心が鎮まる瞬間を経験する。

一瞬でもいい。

心が休まれば、身体も休まり、あなたは包まれる。

art.115 何気ない一言

何気ない一言で傷つくことがある。

「何気ない」のだから悪気がないのはわかる。

けど、「何気ない」とは言え、その人から発せられた言葉である。

つまり「何気ない」とは言え、その言葉はその人そのものである。

言葉とは人である。

気をつけよう。

art.114 餌を食う人

スマホを見ながら食事をする人。

餌を食べている。

食という欲を満たすためだけの行為をしている動物。

一人だからいい?

時と場所を選んでるからいい?

行為とはその人の精神が現れる結果です。

餌を食う人はその程度の精神の持ち主です。

art.113 理性があるから苦しいのかも

人と動物を分かつものとして理性がある。

と西洋哲学では考えられていたけれど、理性があるから苦しむことも多い。

例えば、欲望のままに行動している動物たち。

彼らは悩むということはない(と思う)。

しかし人は違う。

ダイエットなんかはいい例だ。

欲望のままに行動した結果を考え、それをしてはいけない、でもしたい、と苦しむ。

それではなぜに理性なんてものが人にはあるのだろうか?

答えはない。

ただ理性がない人は人ではないのだ。

動物として生きるか?

人として生きるか?

僕らは後者でしか生きられない。