art.25 せめておいしいものだけでも食べようかと思う

哲学書が読めない理由

スマホが当たり前の時代にガラケーの話をするのは時代錯誤もいいところだが、ガラケーの取説は分厚かった。西野カナもびっくりの量だ。

すでに携帯に慣れ親しんだ世代は取説なんて読まなかったが、僕の親世代になると辞書並の取説を一生懸命に熟読し、ポストイットなどを駆使して最先端技術をアナログ的に取り入れようと必死だった。でもわからないから子供に聞く。

これは僕の親が特別機械音痴だとか古い人間だからとは一概には言えない。そもそも取説だけを読んでもわかるわけがないのだ。

もし「誰でも簡単に自転車に乗る方法」的な本があったとしよう。自転車の構造はもとよりアナトミー的な観点、重力や力学といった物理学の視点を取り入れ、イラストや漫画でわかりやすく、どんなに運動音痴な人でも明日から簡単にいとも容易く自転車に乗れる方法が書いてある本である。でも絶対に売れない。興味本位で買う人がいたとしてもそれは既に自転車に乗れる人が買うのである。

この例はいささか極端だがお伝えしたいことは、取説は実践が伴って初めて意味をなすものなのだということ。

哲学書を取説と言ってよいかは迷うところだが、まあなんにせよ、哲学書が読めない理由は実践が伴っていない、つまり著者と同じ危機意識を共有していないということなのだ。

彼ら(哲学者)の問題意識を共有することが僕らパンピーにできるのかという深淵な問題は、せめておいしいものだけでも食べながら考えていただければと思う。

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