ものさしがあるから対象物の姿形が分かる。
便利な道具だ。
でもものさしは万能ではない。
直線しか測れないものさしで曲線は測れない。
当たり前だ。
けど、この当たり前を僕らは忘れる。
「なんでこんなこともできないの?」
自分のものさしだけで他者を判断する。
人間関係だけでなく、自己成長を考えてもいいことは一つもない。
気をつけよう。
Podcast
ものさしがあるから対象物の姿形が分かる。
便利な道具だ。
でもものさしは万能ではない。
直線しか測れないものさしで曲線は測れない。
当たり前だ。
けど、この当たり前を僕らは忘れる。
「なんでこんなこともできないの?」
自分のものさしだけで他者を判断する。
人間関係だけでなく、自己成長を考えてもいいことは一つもない。
気をつけよう。
短い人生だが、自分の人生を振り返るといつも思う。
「なんとかなる」と。
何をしたいのかわからなく、何をやったらいいのかもわからない。
そんな状況で会社を辞めた。
もう6年くらい経つかな。
一応生きている。
生きているだけで地球には迷惑かけているかもしれないが、人様に迷惑をかけることなく生きているとは思う。
なんとかなるもんだと思う。
だから、なんとかならないと思っていても、現実には、なんとかする生き物が人間なのだと思う。
自身の体験からこう言える。
きっとあなたも今までなんとかしてきたはず。
故に、こうやって今、僕の文章を読んでいるのだ。
怖いのはわかるがなんとかなるし、なんとかしてきた実績があなたにはある。
それを忘れないで欲しいと個人的には思う。
衣・食・住。
この3つが満たされていないところで自己実現も幸福もあったものじゃない。
多くの人はそれを忘れている。
特に食べる物。
別に、毎食、無農薬・自然栽培のものを食べろと言いたいわけじゃない。
もちろん、食材に拘るのも大切だが、それよりも「美味しい」と思えるものを食べて欲しいと思う。
ただ、どんなに身体によい料理でも、肘をついて、スマホを見ながらの食事では「美味しい」とは言えない。
じゃあ、何を「美味しい」と言うのか?
一人一人考えて欲しい。
何故なら、一人一人違うはずだから。
母親の手料理の人もいれば、行きつけのラーメン屋かもしれない、友達との食事もあるだろう。
料理は環境とセットであると考えてみてはいかがだろうか。
それは、習慣です。
今の自分が嫌なら習慣を変えることです。
サラリーマンである自分が嫌なら仕事を変えることです。
怠惰な自分が嫌なら期限を決めて忙しくすることです。
そして、そんな習慣を変えられるのはあなただけです。
参考までに。
こんなことが言われる。
確かにそうなのかもしれない。
けど、終わりがない道を歩いている意味を考えると虚しくならない?
確かに道に終わりはないのかもしれない。
けど、道の終わりを目指すのが人間で、仮に目指した終点に到達したとして、その時、終わりじゃなかったと思ってまた歩き出す。
これが人間なんじゃないかと思うんだ。
賢くなるかはわからないけど、考える癖はつく。
例え、本の内容を忘れてしまったとしても、読んでいる最中に使った頭のシナプスは活きる(と思う)。
だから、読めば読むほど思考の幅は広がる。
これこそが難しい本を読む一番のメリットと言えるのではないだろうか。
さあ、今の自分では背伸びしないと読めない本を読もう。
絶対に他者と分かり合うことはできない。
なぜなら自分ではない他者だから。
だから人間付き合いが面倒になる。
それでも人と関わり合うことをやめない人がいる。
もしそんな人が身近にいるのなら、その人との関係は大切にしよう。
なぜなら、そんな人は須く素敵な人であるから。
趣味がないと悩む人は多い。
別に趣味なんてなくてもいいと個人的には思うが、その反面、趣味がない人はいないとも考えている。
先日
「寝ることしかやることがない・・・」
という人と出会った。
寝ることだって立派な趣味になり得ると個人的には思う。
それは、寝具にこだわったり、寝る前のストレッチがどう睡眠に繋がるのかを自分で考え体験したりと色々とできると思うからである。
無論、ここでは無気力の人は対象にしていない。
趣味が欲しいと願う裏には、人生の幸福を考えている。
こういう人が無気力であるはずがない。
無気力なくせに、趣味が欲しいと願う人はただのわがままなのである。
言いたくなくても言ってしまうのが愚痴。
なぜだろう?
ストレス発散?
それもある。
けど、愚痴の深層は、親和性である。
あの人と「私たち」は違う、である。
生贄の深層と愚痴は同じ。
共同体の絆を強める。
それは社会的には必要な行為なのかもしれないが、行き過ぎればただの依存。
一人では不安だから、一人では寂しいから。
愚痴の深層はこんなものである。
なぜそう言えるのか?
簡単である。
自律の精神を持つ人は愚痴を言わない。
洋楽を聴きだした頃、歌詞の意味はわからなくても「かっこいい」という雰囲気だけは感じていた。
クラシックを聴きだした頃、歌詞がないのに「美しい」という思いが自分の中にあることに気づいた。
今でも不思議である。
言葉ではない音が感情を揺さぶる。
きっと音楽を奏でる人はこういった言葉を越えた何かを感じながら生きているのだろう。
言葉を大切にして生きようと思うと同時に、言葉を越えた何かも大切にしようと思う今日この頃である。