art.37 悪口を言う人

その場にいない人のことを悪く言う人。

こんな人とは付き合わないほうがいい。だってこういう人はあなたのいないとき、あなたの悪口を言っているかもしれないから。仮に今は言っていないくても、あなたがその人の気に触るようなことをした際、どこかであなたの悪口を言うはずだから。

そんな人と付き合うのは疲れる。ですよね?

だから自分の精神衛生面を考えれば遠ざけるべきである。逆によき人間関係を求めるのであれば、そういった人とは真逆のことをすればいい。つまり他者の悪口や陰口を言わないことである。

簡単なことである。

art.36 何者でもないから何者かになるために必要なもの

「何をやっているのですか?」

初対面の人の多くはこんなことを聞く。手取り早い会話の糸口だ。「サラリーマンです。」多くの人はこう答えるだろう。ただ答えながらどことなく違和感がある人もいるはずだ。

きっとこの違和感は「やっている」にあるのだと思う。サラリーマンをやっている。あなたはサラリーマンである。I am office worker.

「違う。私は***だ!」

これがあるからこその違和感だと思う。では、「***」であるためには何が必要か?

当たり前だが、自分が知らないことを知るところからはじめなくてはいけない。でないと現状で知っていることだけにとどまっていたら、いつまでもサラリーマン 。何者にもなれないのである。

art.35 安定と不満の間で

人は変化を極度に恐れる生き物だ。安定して食べられる環境があるのに、わざわざ危険を犯す必要はない。危険を犯すときは安定が崩れたとき。それはリスクを犯してリターンを求めるときとも言え、これが進化の歴史。故に、安定しているときに無理する必要はない。

でも僕らはなぜか安定が続くと不満も膨らむ。その安定と不満の間で人は愚痴を言う。きっと僕らの本能は安定を求めながらも、変化も求めるというわがままな構造になっているのだろう。

どちらのわがままに比重を置くかは好きに決めていただければと思う。僕は、せめておいしいものだけでも食べるというわがままをし続けるつもりだ。

art.34 器用な男

器用な人間ほど傲慢になりやすい。なぜなら、他人なんかいなくても今の自分があると思っているから。

大きな間違いである。

例えば、業種もやることも全く違う会社に転職したことを想像してもらいたい。で、その会社は教育という文化はなく、勝手にやって的な社風だったとする。質問しても「なんでそんなこともわからないの?」的なあからさまに嫌な顔をされる。どうだろうか?こんな会社でも自分の器用さを発揮し人並み以上の仕事ができるまで最短で行けると思うだろうか。

想像でもいい。この会社に転職したとしたら。今までやってきた仕事、今やっている仕事、なんだっていい、自分がどれほど周りから助けられてきたかがわかるはずだ。

自律のためには一人で頑張る必要はある。けど、周りが助けてくれているから頑張れるということを忘れてはいけない。

art.33 主人公じゃない人生

世の中には圧倒的主人公オーラの人がいる。漫画の世界を具現化しているかと錯覚してしまうほどの主人公感。

そんな人を目の当たりにすると「人は誰しも自分の人生の主人公」なんて言葉は脇役の戯言でしかないと思える。

人は平等か?なんて青臭いことを考えるほど暇ではない。平等だろうと不平等だろうと生きていかなくはいけないのだから。得をしたい、損をしたくない、色々な思いがあるだろう。けどどちらを掴んだにせよ生きて行かなくてはいけないのが過酷な現実なのだ。

圧倒的な主人公になるのはそろそろ諦めて脇役なりに懸命に生きる覚悟をする。

主人公じゃなくても、おいしいものは食べられる。それだけじゃ不満足?

art.32 西野カナと森高千里

『トリセツ』と『私がオバさんになっても』の歌詞を見ると、なんとなく男女間における女性の立場がここ20年で変わったことがわかる。

女性が変わりすぎたのか、男性が変わらなかったのか、またはその逆かはわからないが、変化があればそこには差異が生じ理解できないことも増えてくる。世代間ギャップというやつである。

ギャップが生じるのは致し方ない。どんなに柔軟な思考を持とうと思っても生きてきたベースが違ければ理解できないことは出てくる。その理解不能なことを嘆くのではなく理解しようとすることが重要で、それが自己変化のきっかけとなったりする。

自己変化できない人は、他者を理解しようとしていない人とも言い換えられるのである。

art.31 弱さを認める勇気

勇ましい気と書いて「勇気」。

強く逞しく物怖じせずに立ち向かうヒーローを想像してしまう。ただヒーローは神様ではない。

冴羽リョウは女性に弱いし、両さんはお金に弱い。それでも彼らはヒーローである。

強くありたいと思いすぎると、ときに自分の弱さが許せなくなることがある。だから弱さを隠そうとしたりする。でもそれは生きにくい。なぜなら嘘をつき続けることになるから。

自分の弱さを受け入れる強さ。これも勇気だと僕は思う。

art.30 最高と最低の間にある現実

ついついよい結果ばかりを想像してしまう。だから頑張れるとも言えるけど、人生そんなに甘くない。思い描いていた結果とは違う現実。「あんなに頑張ったのに、、、」である。

何事も続かない。そういう人はよい結果ばかりを気にしているのだろう。そんな人に「結果ばかりを気にするな。大切なのは過程だ」と言ったところであまり響かないだろうし、結果を気にすることは時には大切であったりもする。だからこう思うとよい。

「今やっていることの結果は、思い描く最高と最低の間に収まるだろう」と。

結果も気にしつつ、やる気も萎えない素晴らしい考えだと個人的には思うが如何かな。

art.29 世界は誰かの仕事で出来ている

責任感が強い人。一見頼り甲斐のあるナイスタフガイに思えるが、見方を変えれば自分以外を信用していないとも言える。

なぜなら他者と協力しないから。責任感の強い人は一生懸命にやる。それは間違ってない。けど自分のキャパを見誤ることは往往にしてある。他者に頼ればいいことも自分でやろうとする。これは他者を信用していないと言えないだろうか。

確かに自分でやった方が早いこともある。だからといってそれら全てを自らやっていたら自分が本来やるべきことができなくなるのは自明である。

人には役割がある。その役割を全うするのが僕ら一人一人の責任なのだ。

もちろん何でもかんでも頼むのは良くないが、自分でやらなくていいことは人に任す。そういう判断をしなくてはいけない。その判断は自らを高めることによって精度が増していく。たぶん。

ではおいしいものの判断精度を高める方法は?

おいしいものでも食べならがら考えようかと思う。

art.28 せめておいしいものだけでも食べようかと思う

なぜ、学ぶのか?

難しい質問である。子供に聞かれ困った経験がある人も多いだろう。そんなとき、子供の手前ありきたりなことをドヤ顔で答えつつも「はて、なぜ学ばなくてはいけないのだろう・・・?」と首を傾げているのではないだろうか。

学びが好きな人も嫌いな人もいるとは思う。でも学びが必要ないと思う人は稀だろう。もちろん学びをどう定義するかもによるが、この世から学ぶことがなくなればいいとは思わないはずだ。

なぜだろう?

多分僕らが学びを必要だと思う理由は、人間は誕生以来ずーっと学び続けてきたからではないだろうか。

今の時代学ばなくても生きていくことはできる。けど人間の進化の歴史をみれば、学びは必須な手段だったことがわかる。気候、外敵など絶えず変化する環境に適応するには学びは絶対に必要な生活手段だったのである。学ばない種は滅びる。歴史は語るのである。自然の原理なのかもしれない。

だから僕らは明確な理由を述べられないけど、学びは必要だと思うのではないだろうか。あなたはどう思う?

せめておいしいものだけでも食べて、学びについて考えてみては如何だろうか。