art.7 せめておいしいものだけでも食べようかと思う

自分らしさはどこにある?

実家に居たときだからもう10年程前の話になる。ある深夜のバラエティ番組を見ていたら、明石家さんまさんがこんなことを言っていた。

「去年は見てなかった人もいるんやで」

これがどんな場面で言われた台詞かを説明すると、その番組は年に一度同じ時期に放送されるスペシャル番組で、そこで毎年恒例のやりとりによるネタを披露したところ、若手から「それ去年も見た!」とのガヤに対しての返しである。

続き様に(確か)今田耕司さんもさんまさんのネタに乗っかりひと笑い。当然の如く「それも(去年)見た!」とのツッコミ。それに対して

「去年見た人もまた新しい気持ちで見てくれるんやで」

流石の返しである。僕はこのとき思ったことがある。

「同じことでもいいから続けることは大切」

「新しさではなく持続が大切」と言い換えてもいい。僕はそれまで何かを始めようとする際、異常なほど「自分にしかできないこと」というオリジナリティを意識していた。そのせいかアイデアは星の数ほど浮かぶのに中々行動に移せない。なぜならすでに誰かが同じようなことをやっていたから。

でも2人のお笑い芸人を見て思った。「続けることでも新しいこと(笑い)は生まれるんだ」と。その意味では「新しさは持続の先に生まれる」と言ってもよいかと思う今日この頃。

さて、せめておいしいものだけでも食べて何事かを続けようかと思う。

art.6 せめておいしいものだけでも食べようかと思う

それ本当に引き寄せの法則?

「成功したかったら成功者の近くに行きなさい」

成功哲学や自己啓発ではたまにこんなことが言われる。要は「類は友を呼ぶ」や「引き寄せの法則」や「宇宙のパワー」や「シンクロニシティ」や「ハイヤーセルフ」などといった諸々を都合よく解釈した言葉である。

これが悪いと言いたわけではない。きっと徳の高い人なら腑に落ちる現象なのだろう。ただ残念ながら僕は徳が低い。何か邪な思想を感じてしまう。

いや正直に言おう。これらの現象を否定しているのではない。そうではなく、これらを言う人や盲信する人の言動に違和感を感じるのだ。「世界は愛でできている」などと歌うくせに、実生活は情慾でお腹いっぱい。そんな人に「あなたが歌うその愛は本物の愛ですか?」と聞きたくなる、そんな感じ。

きっと成功哲学や自己啓発で言われていることを腑に落とすには、カント先生やハイデガー先生の著作を腑に落とすより難しいはずである。言葉を超えた世界のことだから。

もちろんできることなら僕だって腑に落としたい。ただカント先生の著作一冊も理解はおろか読了すらできない現状を考えれば、先に寿命が尽きるのだろう。

せめておいしいものだけでも食べようかと思う。

art.5 せめておいしいものだけでも食べようかと思う

運動するだけじゃ痩せない理由

何をするにも基礎は大切である。その具体的なものは運動だろう。あなたも何かしらの運動をしたことがあるかとは思うが、最初は基礎練をさせられたと思う。その単調さに嫌気がさしてやめてしまう人、試練をくぐり抜けてスポーツの醍醐味を味わう人、様々かとは思うが基礎が大切だということに異論はないだろう。

基礎を習得するには反復が必要だ。ブルース・リーは「Don’t think,feel!」と言ったが反復の目指すものは反射なのだからリーが言いたいこともわかる。だからプロだろうと素人だろうと反復練習は欠かさない。

ただ最近のスポーツ科学では新しい知見が取り入れられている。

もちろん基礎は大切なので「基礎練なんて意味ない」的なことが言われているわけではない。新しい知見の対象は「反復」の方で、反復によって生じる「慣れ」を必ずしもよしとしないのである。

その理由はこうである。「慣れ」は脳への刺激が次第に薄くなる。これは感覚が薄れていくとことを意味し、鈍感なアスリートが競技でよい結果を残せますか?ということ。単純明快。

イチローさんや室伏さんの練習風景をテレビで見た人もいると思うが、彼らの練習に昭和のスポ根的要素が1mmも感じられないのはこう言った背景があるから。

これは僕レベルでも実感できる。毎日足繁くジムに通うが同じメニューの繰り返しでは身体組織の変化は薄くなる。故に、ビルダーがトレーニングメニューを定期的に変えるのは概ね正しいのである(僕はビルダーではないが)。

ただ運動を定期的にしている人ならわかってもらえると思うが、メニューを考えるのは結構大変。だからトレーナーという職業が成り立つ。逆を言えば考えられない人はお金をかけて向上するか、慣れたまま停滞するかのどちらかである。

運動をしても痩せない理由の一つには、反復による慣れがある。

せめておいしいものだけでも食べようじゃないか。

art.4 せめておいしいものだけでも食べようかと思う

極悪人である甥っ子

僕には2人の甥っ子がいる。彼らはとても自分勝手だ。大人の都合なんて全く考えない。いや、もしかしたら彼らなりに少しは考えているのかもしれないが、その考えた結果は彼らの独善の世界に染まっている。

やれ遊べ。それ遊べ。もっと遊べである。

だからと言って嫌かと言われたら嫌じゃない。昔から子供との接し方がよくわからない僕ですら、彼らと遊ぶのは殊の外楽しい。疲れるし、意思の疎通は取れないし、彼らの欲するものは全く理解できないけど、彼らの笑顔とその純粋さに僕はたまらなくなる。

自分100%で生きている生き物が他者を幸せにする。

そんな彼らと接してふと思う。人はいつからだろう。過度に人の目を気にし、極度に人を恐れ臆病に、自分を押し殺して無理をし、時には自分に嘘をついてまでよい子を演じるようになるのは。

世間は言う。「人に優しくなりなさい。気を使える大人になりなさい」と。この言葉に悪意はない。それはわかる。けど人は勘違いをする。

自分勝手は悪で、人のためは善であると。

もしこれが真理なら僕の甥っ子2人は極悪人である。そして世の中は善人で溢れていることになる。争いは起きない、不平も不満も出ない、まさに桃源郷。あなたはこの世界をそんなユートピアだと感じているだろうか。

能面を被った善人より、無邪気に遊び狂う極悪人が巣食う魑魅魍魎の世界。

僕はそんな世界に想いを馳せながら、せめておいしいものだけでも食べようかと思う。

art.3 せめておいしいものだけでも食べようかと思う

なぜ、エグゼクティブは身体を鍛えるのか?

10代の頃、映画が好きで狂ったように観ていた時期があった。その頃だったと思う。こんな疑問が僕の中に芽生えたのは。

「なぜ、ハリウッドスターは身体を鍛えるのか?」

80年代のシュワちゃんやスタローンは兎も角、一件細身に見える(当時の)トム・クルーズやブルース・ウィルスもよく見れば中々のマッチョである。

社会に出てからはその疑問はより深まった。なぜなら社会的に地位が高い人、それはスーパー多忙な人と同義だが、そんな人ほどエクササイズを欠かさない。一方、一般的な人ほど運動を敬遠する。

両者を分つものは何なのか?

何も難しく考えることではなかった。自分自身の生活に運動を取り入れたことで彼らの思想を腑に落とすことができたから。ではその思想とは何なのか。

身体は道具。

僕らは何をするにも道具を必要とする。畑を耕すには鋤を使うし、文字や絵を描くにも紙や鉛筆を使う。それと同じ。

生きていく上で一番大切で替えのきかない道具。それが「身体」なのである。

職人は道具を大切にする。僕の周りには職人と言われる人が多くいるが彼らは自分が使う道具、それは鉛筆一本だって大事に丁寧に扱いメンテナンスを欠かさない。エグゼクティブが身体を鍛える(整える)のもこれと同じ理由なのである。

さて、今日も身体を鍛え、せめておいしいものだけでも食べようかと思う。

art.2 せめておいしいものだけでも食べようかと思う

目の前で見たことは間違いない?

旅行に行った夫婦あるいは恋人が数年後に思い出話をする。同じ場所で同じ時間を過ごし同じものを見たはずなのに何故か意見が食い違う。どちらも譲らない。「あなたが(お前が)間違っている!」

僕らは自分が実際に見たものは間違いないと思っている。間違いないというのは「事実は変わらない。それを実際に見たわたしが言うことなのだから間違いない」と言う意味である。故の衝突である。

確かに事実は変わらない。

ただ変わるものがある。

それは僕らの「記憶」である。

短期記憶、長期記憶という言葉を聞いたことある人は多いかと思うが、これは脳の部位で言えば、それぞれ海馬と大脳皮質に対応している。そして僕らは大脳皮質(長期記憶)にある記憶は変わらないと思っている。

ただそれは仕方がない。ほんの数十年前まではそれが正しかったから。でも最近明らかになったことがある。大脳皮質に保存されたもの(正確にはニューロンとシナプスの回路)は、思い出す度に不安定化され、再度、固定化されるというのだ。

つまり記憶は思い出す度に揺らぎ変わっていると言えるのである。

実際に見た目の前の光景(事実)は変わらない、だが、あなたの記憶は変わっているのだ。

果たして僕らはありのままの事実(世界)を捉えることは可能なのだろうか。

せめておいしいものだけでも食べようかと思う。

art.1 せめておいしいものだけでも食べようかと思う

1万時間

プロフェッショナルと言われる人達は先天的な才能に恵まれていると思われているが、遺伝子的にはそういった事実はないらしい。

そこでジャンルを問わずプロフェッショナルと呼ばれる人達を調べた結果、ある共通することがわかった。

それは、プロフェッショナルは幼い頃、1万時間という時間をそれに費やしたとのこと。

1日3時間練習したとして1年間で約1000時間。1万時間を費やすには10年が必要ということである。

生まれ持った才能などないのかもしれないけれど、1万時間を一つのことに集中できること自体が才能だと言えないだろうか。

だとしたらこの才能は僕らでも持てるのではないだろうか。「幼い頃」という条件は満たせないが「いま」から10年間やり続ければいいだけなのだから。