art.21 せめておいしいものだけでも食べようかと思う

依存と協力

人は一人では生きていけない。当然だ。だから協力する。技術的にも精神的にも。

そんな中、とても心強い人が身近にいるとする。さてこの人と一緒にいることは協力なのか依存なのか?

これは外からは判断できない。いつも一緒にいても依存ではなく協力する人達もいれば、一緒にいなくても依存している人達もいるのだから。

結局は自分の内面が決めること。一つの指針としてはこんなものがある。

その人がいなくてもいつもと変わらない、が協力。落ち込んだり不安になる、が依存。どうだろうか。協力は難しいが苦悩は少ない。逆に、依存は楽だが苦しむことは多い。どちらも人生。せめておいしいものだけでも食べようかと思う。

art.20 せめておいしいものだけでも食べようかと思う

何かの理由を求めるとき

「なぜ、働かなくてはいけないのか?」
「なぜ、勉強しなくてはいけないのか?」
「なぜ、生きなくてはいけないのか?」

僕らは「なぜ?」を問たがる。なぜなら理由が欲しいから。理由があれば何かを始められる。逆に何も始められないのは理由がないからだ、と。

確かに理屈としては間違ってないと思うし、理由を求めることを間違いだと言いたいわけではない。けど唯一絶対の理由なんかないということだけは忘れてはいけない。

例えば、時代が変わろうと、国が変わろうと「生きる理由」に絶対はない。だから人間はいつでも道に迷う。素晴らしきかな。

これを突き詰めれば、物事に理由なんてないと言えないだろうか。ないものを求める。無い物ねだり。これは裏を返せば、ないものを求めるとき、それは、「今」やっていることをやめる理由が欲しいだけと言えないだろうか。

「なぜ、働かなくちゃいけないのか?」理由なんてない。働くだけ。
「なぜ、勉強しなくちゃいけないのか?」理由なんてない。勉強するだけ。
「なぜ、生きなくちゃいけないのか?」理由なんてない。生きるだけ。

そんな人生だ、せめておいしいものだけでも食べようかと思う。

art.19 せめておいしいものだけでも食べようかと思う

著者との対話

本とは不思議なものである。文字が書かれた紙の束。インクのシミと言っても間違いじゃない。でもそのシミを読み進めると極稀にだが不思議な経験をする。話したこともなければ、会ったこともない、むしろとうの昔にこの世界を去った人が僕の頭に入り込んでくるのである。

その人は語りかけてくる。あれやこれやと兎や角言う。こちらの質問は受け付けない。一方的に話す空気の読めない人である。

だけど不思議と嫌な気持ちはしない。むしろ話をもっと聴きたくなる。質問は受け付けないが、ふとした文脈で答えを言ってたりする。頼りになる。

こんな頼れる人が1000円程度で買える国に生まれた幸運に感謝しながら本を読む。おいしいものがさらにおいしくなるのである。

art.18 せめておいしいものだけでも食べようかと思う

2度読みのススメ

「なんかいい」と思える本に出会えたら、読了後すぐに読み直す。別に全部を読み返さなくてもいい。自分が気になったところだけでも読み直す。

メリットは2つ。

まずは記憶の定着率。僕らは自分の記憶力を侮ってはいけない。「いいこと学んだ」と思っていても寝て起きたら忘却の彼方である。それを防ぐには反復しかない。

もう一つは、理解の深度。僕らは自分の頭脳を侮ってはいけない。一回読んで理解したつもりの内容が、実は著者が言っていることとは真逆だったりする。自分が気になったところは丁寧に丁寧に丁寧に読んでも読みすぎということはない。

読み終わった後すぐはきつい。。。という場合は、せめておいしいものを食べた後に読んでみる。おすすめである。

art.17 せめておいしいものだけでも食べようかと思う

口数が多いとき

今日はなんだか自分でも不思議なくらい言葉が次から次へと溢れ出す。まるで舞台のど真ん中でスポットライトを浴びているかのような高揚感。周りにいる人全てが聴衆に思える。

そんな時は要注意。多分それは一人芝居である。相手の耳に入る自分の声は周りの雑音と変わらない。なぜなら相手に届けようとしていないから。

どんなに高尚でスバラシイお話でも相手に届かなくては意味がない。自己満足の言葉の連続は届く相手を持たない。

口数が多いと思った時、静寂を恐れずにすこしの間黙ってみる。ほら、想いを伝えたい相手の顔が見えるから。