art.10 せめておいしいものだけでも食べようかと思う

あるべきところに収まる

「柔道でオリンピックに出て金メダルを取る」こんな無邪気な夢を小学校の卒業文集に書いた。言うまでもないがオリンピックには出ていない。

人は無限の可能性を持って生まれ、それを持て余し気づいたら今に至る。この経緯を世間では「人はあるべきところに収まる」とか「宿命」とか言ったりする。

これをポジティブに捉えるかネガティヴに捉えるかは人次第だが、僕で言えば10年ほど前まではネガティヴに捉えていた。「宿命?ふざけるな!俺はサラリーマンのまま人生を終わるなんて真っ平だ。社畜に自由はない。自分の手で自分の人生を勝ち取ってやる!」やや大袈裟に誇張したが大体はこんな思想を持って過ごしていた。

だからいくつもの決断をした。

それが正しかったのか間違っていたのかは未だにわからない。きっと決断の数以上にチャンスも逃していると思う。では今でもネガティヴに捉えているかと言えばそうでもない。かと言ってポジティブに捉えているかと聞かれればそうでもない。じゃあ運命なんてそもそもない的な感じ?そうでもないのである。

今の僕は、運命は二次的なものだと理解している。

僕らは「いま」を生きている。当然だ。この「いま」に至るまでには数え切れないほどの帰路があり、その都度決断をしたわけだ。就職するしないといった大きな決断だけでなく、今日の夜は何を食べようかなといったものまで、全ては決断の連続で「いま」がある。

つまり、一次には自分の「決断」があり、その結果が「いま」なわけだ。故に「あるべきところに収まる」は二次的なものでしかない。

さて、今日の僕の重要な一次「決断」、それは何を食べるかだ。せめておいしいものだけでも食べようかと思う。

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