art.14 せめておいしいものだけでも食べようかと思う

メールが消える

メーラーが自動更新した後、アカウントが表示されなくなった。つまりはメールが消えてしまった。受信もできない(不思議だが送信はできる)。仕事などのやり取りで使用していたメールである。非常に困った。さてどうするか。

ググってみる。過去にも同じ経験をしている人がいる。彼らのやり取りを参考に自分の現象に当てはまるかを見極め対処する。オープンソースメーラーの宿命である。こんなときいつも思う。色んな人がいるからこそこれらの便利さを享受できているのだと。

大袈裟に聞こえる人もいるかもしれないが、ソースコードなんて1行足りとも理解できない僕にとっては誰かの辿った困難が道しるべとなる。その人がいなければ僕は何をしたらいいのか皆目見当がつかないのである。

きっとその人は誰かの役に立っているなんて微塵も考えていないだろう。「何なんだよ!めんどくせえなあ!勝手にアップデートしたと思ったらバグりやがって!」と苛立っていたに違いない。でもその苛立ちが誰かの役に立っている。そう考えたら少しは前向きになれるのではないだろうか。

さてはて。こんなことを書きつつも僕は何もしていない。メールが消えてしまったという現実は現在進行中である。ああ無情。せめておいしいものだけでも食べてからどうするかは考えよう。

art.13 せめておいしいものだけでも食べようかと思う

プーチン大統領を傭兵と間違える

僕は時間の許す限り毎日ジムに行くようにしている。そのためかたまにビルダーを目指していると勘違いされるが全く目指してはいない。では、なぜ毎日トレーニングをするのか。

以前、身体は道具であるとお伝えしたことがあったかと思う。僕は道具(身体)のメンテナンスが目的でジムに通うのである。そのメンテナンスの結果、身体が大きくなることもあれば、小さくなることもある。

前回、痩せマッチョの話をしたかと思うが、昨今は身体に対する間違ったイメージが蔓延している。グッチやヴィトンやディオールが痩せすぎモデルは使用しないと発表、フランスでは極端に痩せているモデルの活動を禁止する法律が施行されたのは記憶に新しいが、それでも一度作られたイメージを覆すのは難しい。老若男女、訳も分からず痩せたがる。

先日、ロシアのプーチン大統領がマイナス5度の海氷に上半身裸で沐浴する動画を見た。何かの禊らしい。その禊に興味はないが、プーチン大統領の身体には驚いた。

60代も半ば。一昔前で言えば立派なおじいちゃんである。だが身体は決しておじいちゃんではない。顔が映っていたのでかろうじてプーチン大統領だとわかるが、顔を隠されていたらどこかの傭兵としか思えない身体である。

身体は道具であるとすれば、大統領クラスになれば傭兵並みの道具(身体)が必要ということである。いや逆かな。あれほどの道具(身体)には大統領というステージが必要なのだろう。

せめておいしいものだけでも食べようかと思う。

art.12 せめておいしいものだけでも食べようかと思う

痩せマッチョ

痩せマッチョを目指すらしい。今日ジムでそんな会話を聞いた。不思議な言葉である。「痩せ」と「マッチョ」。相反する概念なのにそれが疑問もなく受け入れられている。言葉の柔軟性というか懐の深さというか、そんなものを感じる。

でも「痩せマッチョ」が指し示す実体を見れば「痩せマッチョ」という言葉と実体が必ずしもイコールでないことに気づける。

痩せマッチョは、単に痩せているだけなのだ。骨と筋肉と贅肉と皮。贅肉がないので筋肉の上に直接皮があるだけ。マッチョとは言えない。

「痩せマッチョを目指す」とは、痩せたいのか、それともマッチョになりたいのか。僕には理解できない目的なのである。

せめておいしいものだけでも食べようかと思う。

art.11 せめておいしいものだけでも食べようかと思う

リスクとリターン

天候不順により作物が育たない。このままでは家族の食べるものがない。仕方ない。危険だが場所を移動しよう。

生きるためには安全が必要だ。だから危険はできるだけ遠ざける。でも何かしらの要因で安全が保てなくなる。危険を起こさなくてはいけない。生きるために。

このようにリスクとリターンは密接な関係にある。当然、関係によって係数は変わる。また絶対とは言えないがより危険を取った者は多くの食糧を得、逆は少なくなるだろう。

この割合は知識によって変えることはできる。安全プラスアルファを得ると言い換えてもいいし、ローリスク・ハイリターンと言ってもよい。

だけど忘れちゃいけない。ゼロリスク・ハイリターンはこの世界にはない。食糧が底をついたのに何もしなければくたばるだけだ。

何かを差し出さなければ何も得ることはできない。

せめておいしいものだけでも食べようかと思うなら、何かを差し出さなくてはいけない。

art.10 せめておいしいものだけでも食べようかと思う

あるべきところに収まる

「柔道でオリンピックに出て金メダルを取る」こんな無邪気な夢を小学校の卒業文集に書いた。言うまでもないがオリンピックには出ていない。

人は無限の可能性を持って生まれ、それを持て余し気づいたら今に至る。この経緯を世間では「人はあるべきところに収まる」とか「宿命」とか言ったりする。

これをポジティブに捉えるかネガティヴに捉えるかは人次第だが、僕で言えば10年ほど前まではネガティヴに捉えていた。「宿命?ふざけるな!俺はサラリーマンのまま人生を終わるなんて真っ平だ。社畜に自由はない。自分の手で自分の人生を勝ち取ってやる!」やや大袈裟に誇張したが大体はこんな思想を持って過ごしていた。

だからいくつもの決断をした。

それが正しかったのか間違っていたのかは未だにわからない。きっと決断の数以上にチャンスも逃していると思う。では今でもネガティヴに捉えているかと言えばそうでもない。かと言ってポジティブに捉えているかと聞かれればそうでもない。じゃあ運命なんてそもそもない的な感じ?そうでもないのである。

今の僕は、運命は二次的なものだと理解している。

僕らは「いま」を生きている。当然だ。この「いま」に至るまでには数え切れないほどの帰路があり、その都度決断をしたわけだ。就職するしないといった大きな決断だけでなく、今日の夜は何を食べようかなといったものまで、全ては決断の連続で「いま」がある。

つまり、一次には自分の「決断」があり、その結果が「いま」なわけだ。故に「あるべきところに収まる」は二次的なものでしかない。

さて、今日の僕の重要な一次「決断」、それは何を食べるかだ。せめておいしいものだけでも食べようかと思う。