art.47 日本語を勉強する

英語を勉強する日本人は多いが、日本語を勉強する日本人は少ないように思う。

勉強する必要はない?

では次の問いに答えられるだろうか?

「全員靴を履いている」を否定文にせよ。

もしこの答えが「全員靴を履いていない」だけと答えたなら、日本語を勉強する必要があると個人的には思う。

普段使う道具(言葉)こそ、磨きをかけるものである。

art.46 限界の向こう側

筋トレをしてていつも思うこと。

「あと1回はできたはず」

追い込んで追い込んで追い込んだつもりでも、終わった後にこう思ってしまう。

身体と脳(こころ?)の間にはバッファ的な要素があるのだろうか。

身体の限界の前に、脳が勝手に判断してしまう。

きっと今までにも「これはできっこない」と思ったことの多くは、やらないだけでやればできることなのだろう。

さあ、明日からも筋トレを頑張ろうか。

art.45 脱土地化

産業革命がもたらした重要な概念に「脱土地化」というものがある。

「脱土地化」を現代風に言えば「働き方改善」とでも言えばいいのだろうか。要するに働く場所を自分で決められるということである。

産業革命以前までは働く場所は、生まれた国(土地)、家柄などで制限されていた。農民として生まれたらその土地で農民として生きるしかなかったわけだ。

それが産業革命によって変わった。移民である。

それから200年余り。脱土地化は当たり前の事実となっているだろうか。

「仕事をするなら東京」なんてことを未だに言う人がいる。だからなのか日本のみならず世界中から働き手が東京に集まる。

集まるのはいいが、何もみんな揃って9時に会社に行く必要があるのだろうか。

都内の電車は誰がみてもキャパオーバーだ。輸送が目的だからと言って、人をゴミのように電車に押し込む風景は、観光客なら「アンビリーバボー」で済むが毎日それに乗らなくちゃいけない人にとってはたまったもんじゃない。

だからと言って国や社会や会社に文句を言っても何も変わらない。

どうするか?

脱土地化をすればいいのである。みんな同じ場所で働かなくてはいけないという概念をそろそろ変えてもいいのではないだろうか。200年も経ったのだから。

art.44 真似てもいい

「学ぶ」の語源は「真似る」である。

学校の勉強を思い出して欲しい。一から学ぶことはない。すでに誰かが学んだことが教科書に書かれている。それを僕らは学んでいる(真似している)。

それでいいのである。

自分で「学び」を発明する必要はない。それに、発明したくても僕らにはそんな才能も時間もお金もない。

だから最初はとことん真似る。それをやり続けると次第に自分なりのコツがつかめてくる。

これは誰しもが経験していることだと思う。勉強にしろスポーツにしろ。

そのコツを経験することが学ぶ意味なのだと個人的には思う。

さあ、今日も大手をふって学ぼうじゃないか。

art.43 猛烈に忙しくしてみる

人は時間があると考えてしまう。考えるのは悪いことではないが、考えすぎはよくないこともある。特に悪いことばかり考えてしまうのなら尚更だ。

だから考える暇もないくらい忙しくしてみる。その忙しさの中でやるべきことをやると自分にコミットする。

もうやるしかない。考えている暇はない。

そのアウトプットがあなたの道となる。

art.42 苦しみを内に閉じ込める

話せばわかる、は傲慢だ。人は優しいからこそ嘘をつくし、弱いからこそ騙される。

話さなければわからないこともあるが、話せばそこには嘘が生まれる。なぜなら言葉は入れ物だから。例え話し手が嘘をついてる意識がなくても、箱の中身は受け手が決めるもの。受け手が思っていたものと違うと思ったら、それは話し手が嘘をついたことになるのだ。

だからこそ、時には沈黙が必要だ。沈黙の最中は不安や苦しみが生まれる。人はそれを誰かと分かち合いたいとすぐに思う。一人では耐えられないと思うから。

でもそこは踏ん張る。その苦しみを内に閉じ込める。外に出したって嘘だと思われる可能性があるのだから。

苦しいのは嫌?その苦しみはあなただけのものだ。大切にすべきだと思うが違うかな?

art.41 上を見たらキリがない

欲があることがいいのか悪いのかはわからない。あるからこそ頑張れるとも言えるし、あるが故に苦しむとも言えるから。

また欲があるから自分と他人を比べてしまうのかもしれない。人より優位に快適に過ごしたい。隠さなくていい。大なり小なりあるはずだ。

だけれども、自分よりすごい奴は腐る程いる。仮に人間力というような曖昧なものがあったとして、そのトータルでは自分の方が上でも、専門的な技術、例えば、お金を稼ぐのが恐ろしく上手い人、異性から異次元レベルでモテまくる奴、体重60kgの男がベンチを200kgを上げるとか、そういったレベルで見ると、全てにおいて他者より優位に立つなんてことは不可能だ。神でもない限り。

当然僕らは神ではない。だから、そんな現実を目の当たりにしたらもう努力はおろか、生きることさえ嫌になるかもしれない。

そんなときは、せめておいしいものだけでも食べてみたらどうだろうか。一人でおいしさを追求するでもよし、家族や友人とおいしいものを囲むもよし。その瞬間はきっと神になんてなろうとしていないはずだから。

art.40 丁寧に読むができない理由

人は効率を求める。当たり前だ。火を起こすのに毎回火おこし棒を使っていたら大変である。マッチやライター、コンロといった効率が僕らの生活をよくしてくれている事実がそれを物語る。

だから自然と効率を求める。1→2→3→4→5→6→7→8→9→10と順番に行くよりも、1→5→10の方が効率がいい。

だけど、もしかしたら飛ばした2や7にあなたが見つけたかった大切な何かがあるかもしれない。盲目的に10を目指して効率を選んだけど、本当に欲しかったものは、6だったのかもしれない。

読了することだけを目的とした読書は、こういったことが起きているのかもしれない。たまには一歩一歩時間をかけて読んでみてはいかがだろうか。

art.39 敢えて難しく考える

難しく考えるな。物事はシンプルなんだ。そんなことが言われる。

確かにそんな気もする。シンプルに生きれたらきっと違う人生があるのだろう。でもシンプルに生きられないから皆苦しむじゃないのか?とも思うのだ。

ではどうするかだ。敢えて逆に行ってみるのも一つの手だ。しかも猛烈に逆に行く。そう「ふるえるぞハート!燃えつきるほどヒート!!」と叫びながら。そんなバカなことをし続けると今まで見えていなかったものが見えたりする。

行けないシンプル極ではなく、敢えてその逆の極へ疾走する。そんなことをし続けてふと立ち止まってみる。目線を上げてみる。振り返る。今まで見えなかったシンプルの極が見えるものである。

そして、その見えたものは、実は、目の前にあったりする。

art.38 誰とも交わらない強さ

辛いことが起きなければいい。でもなぜだかわからないけど必ずやってくる。

そんなとき、他者は助けてくれる。心強い。人間一人では生きられないを実感する。

これを否定するつもりはない。

けどたまには辛さを誰にも言わずに、自分の内に籠めて耐え忍んでみるのも悪くない。

苦しいけど、この辛さはあなたにだけ訪れた辛さなのだ。

その辛さと面と向かって向き合うことは、自分の成長には大切だ。

なぜなら、人は悲しみの数だけ強くなれるし、その分、他者の辛さも理解できるようになるのだから。

優しい人とは、強い人なのだ。